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テオドリック (東ゴート王) : ミニ英和和英辞書
テオドリック (東ゴート王)[おう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

テオドリック (東ゴート王) : ウィキペディア日本語版
テオドリック (東ゴート王)[おう]

テオドリックTheodoric, 454年 - 526年8月30日、在位 : 493年 - 526年)またはテオデリック(Theoderic, Theoderik)は、東ゴート王国の創始者。ラテン語ではテオドリクス (Theodoricus)。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。イタリア語ではテオドーリコ (Teodorico)。
== 生涯 ==
東ゴート族の王子ティウディミルの子として454年に生まれ、東ローマ帝国人質として、少年期をコンスタンティノポリスの宮廷で過ごした。470年、ティウディミルが王位に就くと帰郷したが、マケドニアテッサロニキを占領した後、父王が死んだので、王位を継承した。

東ゴート族の主導権を巡って、ローマ軍の長官テオドリック・ストラボと争い、皇帝ゼノンとの政治的駆け引きを繰り返したが、テオドリック・ストラボが急死したため、東ローマ帝国に圧力をかけ、483年には東ローマ帝国の軍事長官に任命された。
彼の東ゴート王国創設は、西ローマ帝国パトリキウスに任命された親衛隊長オドアケルが、東ローマに内政干渉を行ったことに端を発する。皇帝ゼノンは、テオドリックにイタリア遠征と、皇帝代理としてこれを支配することを確約した(これは、東ローマ帝国内に居座る東ゴート人を厄介払いしてしまおうと言うゼノンの思惑があった)ので、488年、彼はモエシアを経ち、489年、リュブリャナ平原のイゾンツォ川でオドアケルの軍勢を破ると(イゾンツォの戦い)、ヴェローナミラノを占領、西ゴートの援軍を得てラヴェンナを包囲した。493年、彼は、和平交渉によりラヴェンナ入城を果たし、イタリア王を名乗った。
テオドリックは、隣国との調停を計るため、フランク王国の王クローヴィスの妹アウドフレダを妻に迎え、娘を西ゴート王国アラリック2世に、妹をヴァンダル王トラスムンドに嫁がせた。
彼を、そして東ゴート王国を最も悩ませたのは、宗教問題と後継者問題であった。テオドリックと、多くのゴート族はアリウス派であったが、カトリック教徒であった皇帝ユスティヌス1世ローマ法大全を編纂させたユスティニアヌス大帝の、叔父にして先代皇帝)はこれを迫害し、東ローマとの関係は次第に悪化した。また、彼自身は当時としては長寿であったが、テオドリックには後継者となる男子に恵まれず、東ゴート王国にとってはこれが最も致命的となった。
彼は526年に死に、その霊廟は現在でもラヴェンナで見ることができる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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